「青葉城恋歌」がまだ完全に懐メロ化してはないころだったと思う。
広瀬川の流れる岸辺で芋煮会で盛り上がったり、親切な先輩ママたちにお世話になったり、懐かしい思い出がいっぱいである。
当然冬の寒さも経験した。
外に脱水したタオルを干そうとしたら、広げた途端に凍ってかたまっってしまったことがあった。
それ以来の冬の東北である。
盛岡は仙台よりハヤブサで30分も北にある。
さぞかし寒いんだろうな~~~~と覚悟して行ったら、やっぱりすごく寒かった・・・というより痛かった。
3日前に降ったという雪、積雪は大したことないのだが、見事にカッチンコッチンに凍っていて、叩いても割れない。スケートリンクのように光っている。
だが、だれもすっころんでいない。
老爺も老婆もすたすたと歩き
宅急便のおにいちゃんは、軽快に走っているではないか。
これは、絶対こけられない!
腰を落し少々がに股の小股で歩く。
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今回は、遊びに来たのではありません。
引っ越しの手伝いに来たのです!
私、一時期やたら引っ越しが多かったためか、荷づめとか荷解きが得意で、
引越し屋さんのバイトに行こうかと本気で考えたくらいなのでございます。
でも、引っ越しの手伝いはチョチョイっと朝飯前に終わりそうなので、
隙間時間に また「すぽたん」をお供に北国の冬を満喫しちゃおうという目論見なのだ。
しゅっぱ~つ!
隙間時間に また「すぽたん」をお供に北国の冬を満喫しちゃおうという目論見なのだ。
しゅっぱ~つ!
「食べる」
といえば、盛岡の三大麵、というのをご存知かしらん?
「わんこそば」
「盛岡冷麺」
「じゃじゃ麵」
この3つらしいよ。
このうちわんこそばと冷麺は昔食べたことがあるんだよね。
おいしかったけど、年齢的にわんこそばにトライするのは無謀。
今回は冷麺とじゃじゃ麵を食しました。
「つかる」
といえば温泉。
駅前のバス停からほんの20分くらいで「つなぎ温泉」という弱アルカリの美肌温泉に着く。
雫石川をせき止めたダム湖のほとりにある温泉で湖の対岸の奥は小岩井農場とか岩手山とかにつづくようだ。
夜の露天風呂、月が照って雪も舞ってとてもいい雰囲気だった。
でも、一人だったのでめっちゃめちゃ暇だったわ~~~
雫石川をせき止めたダム湖のほとりにある温泉で湖の対岸の奥は小岩井農場とか岩手山とかにつづくようだ。
夜の露天風呂、月が照って雪も舞ってとてもいい雰囲気だった。
でも、一人だったのでめっちゃめちゃ暇だったわ~~~
「見る」
これは、真冬のことなので遭難しなさそうな市内をちょっこと見て回ることにしよう。
「石割桜」
誰もいないのをいいことに盛岡地裁の石の上にすぽたん。
石割桜はここの正面に生えているのである。
庭石であったこの大きな花崗岩の上に落ちたひとつぶの種が大きく大きく育って石を割ったんだそうな。花の季節は見物の人でいっぱいらしい。
誰もいないのをいいことに盛岡地裁の石の上にすぽたん。
石割桜はここの正面に生えているのである。
庭石であったこの大きな花崗岩の上に落ちたひとつぶの種が大きく大きく育って石を割ったんだそうな。花の季節は見物の人でいっぱいらしい。
「盛岡城址公園」
「桜木神社」
この樹は別に有名じゃないんだけど、石割大樹なんですよ。
石組の美しい城跡には大岩があちこちにあるのだけど、この樹も岩のてっぺんに根をおろしてるの。
岩に割れ目もあるし、この樹も是非「石割○○」の仲間に入れてやってくださいな!
盛岡に行ったらこの子も見てね!
この樹は別に有名じゃないんだけど、石割大樹なんですよ。
石組の美しい城跡には大岩があちこちにあるのだけど、この樹も岩のてっぺんに根をおろしてるの。
岩に割れ目もあるし、この樹も是非「石割○○」の仲間に入れてやってくださいな!
盛岡に行ったらこの子も見てね!
下の写真は隣接の桜木神社という神社の横にかかっている幕です。
今回一番心に残ったのがこの幕でした。
ご覧ください。昭和61年旧盛岡藩士のみなさんの奉納なんです。
今回一番心に残ったのがこの幕でした。
ご覧ください。昭和61年旧盛岡藩士のみなさんの奉納なんです。
なぜ、藩士?
うちのオトウピーが大好きな浅田次郎氏の「壬生義士伝」。
主人公とその親友がたしかここ盛岡の人という設定だった。
盛岡藩は幕末期藩政が乱れ、一揆が多く起き、隣の仙台藩から、藩政を改革せよとの横やりが入ったんだって。
そこで、楢山佐渡という21歳くらいの若い家老が先頭に立って藩政改革に乗り出したんだそうな。
ところが東北は、明治維新の際幕府側に付いていた。
中でも会津と盛岡は最後まで幕府軍だったために、賊軍となってしまい、楢山佐渡は責任をとって斬首の刑に服したという。
うちのオトウピーが大好きな浅田次郎氏の「壬生義士伝」。
主人公とその親友がたしかここ盛岡の人という設定だった。
盛岡藩は幕末期藩政が乱れ、一揆が多く起き、隣の仙台藩から、藩政を改革せよとの横やりが入ったんだって。
そこで、楢山佐渡という21歳くらいの若い家老が先頭に立って藩政改革に乗り出したんだそうな。
ところが東北は、明治維新の際幕府側に付いていた。
中でも会津と盛岡は最後まで幕府軍だったために、賊軍となってしまい、楢山佐渡は責任をとって斬首の刑に服したという。
南部藩と八戸藩に分かれていた盛岡藩はその後、明治政府の報復処置で、八戸は青森県になってしまったとか・・・(う~ん、NHK大河になりそうな話ではありませんか。)
ネットで検索していると、その時の悔しさを引きずっているような記述が結構上がってくる。
考えすぎかもしれないけれど、「旧盛岡藩士」という言葉に悔しさと矜持みたいなのを感じたのでした。
明治政府ひどいじゃん、って思ったけど、
今だってけっこう犠牲を強いられているような・・・原発の問題とか。
ぶつぶつ言っていたら横から「平安時代からだよ・・・」という声が。
そうだね。
中央から遠いほど声が届かなくなるのはいつも同じなのかもしれないね。
ネットで検索していると、その時の悔しさを引きずっているような記述が結構上がってくる。
考えすぎかもしれないけれど、「旧盛岡藩士」という言葉に悔しさと矜持みたいなのを感じたのでした。
明治政府ひどいじゃん、って思ったけど、
今だってけっこう犠牲を強いられているような・・・原発の問題とか。
ぶつぶつ言っていたら横から「平安時代からだよ・・・」という声が。
そうだね。
中央から遠いほど声が届かなくなるのはいつも同じなのかもしれないね。
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