この時間は、まだ、普通の日だった。
家がねじ切れるみたいに揺れた時も、「あ~壊れるかと思ったけど、よかった~。怖かったぁ」
とか普通に思っていた。
テレビがいきなり仙台平野をのみ込む津波を映し、
海辺の町を逃げ惑う人たちを途中まで追い、
気仙沼が海にのまれて しかも燃えているのを映し、
次の日からは原発の爆発の危機を報じ始めた。
日本中が普通ではいられなくなった。
3か月くらいしてやっと全部の知り合いに連絡がついた。
一人は市の職員で被災者に直接かかわって働いていた。
彼女の最初のメールは、「忘れられてなくてうれしい」だった。
そんな、忘れるわけないじゃない・・・その時はそう思っていたけれど、
1年たち2年たつと目のまえにないことは、どうしても薄れていく。
私にできることなど何もなく、ときどきお見舞いの連絡をするくらいなのだが、
彼女は、いつも 「わたしたちのことを覚えててくれてうれしい」と言ってくれる。
きっと現地の人の多くの思いなんだろうと思う。
「何かをしてもらおうなんて、多くは期待しない。
だけど、
終わったことにしないでほしい。」
こうろん達が被災地を回って演奏のボランティアをしたことが地元紙に報じられてたよ…と言って
新聞を送ってくれた。
「2年ぶりに入院患者を受け入れ」とか
「この写真、持ち主は?」とか
「この方に見覚えはありませんか?」というような記事が目を引く。
写真ではなく、似顔絵だ。おそらくは、ご遺体のスケッチなのだろう。
地元では、ず~っと「そのあと」があって、今も続いているんだなあと改めて思った。
広告欄には、魚を食べさせる店の広告や、海産物の店の広告もあって
だんだんに日常が戻ってる側面もみえる。
名物フカヒレスープとワカメをもらった。
「フカヒレ、宝さがしみたいですよ~」だって。
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